




一杯のコーヒーに魅了され、銀行を退職し、タリーズコーヒーを日本へ進出させた、 松田公太氏。連載第一回目は、タリーズコーヒーを日本上陸させたエピソードからアジアへの進出、米国サンドイッチ・チェーン「クイズノス」のアジアパシフィックの社長を務める現在の新たな挑戦についてお話いただきました。
父親の転勤で幼少から高校を卒業するまで、アフリカ、アメリカと海外で育ちました。外国暮らしにもかかわらず、父親が緑茶好きで、食卓にはいつもお茶がありました。このため、コーヒーはカフェインを摂取するものという認識しかなく、好んで飲むことはほとんどなかったのです。ブラックが苦手で、コーヒーは砂糖とミルクを入れてやっと飲む程度でした。
あるとき、友人の結婚式に出席するために訪れたボストンで、人生を一転させる出来事が起こりました。一杯のスペシャルティコーヒーをたまたま口にしてみると、「こんなに美味しいコーヒーがあるのか!!」と強烈な衝撃を受けました。正体を調べてみると、エスプレッソとミルクで作られたラテ。苦いというイメージしかなかったエスプレッソがこんなにも飲みやすいものだったのかと、非常にびっくりしました。
さらに驚いたのは、コーヒーをテイクアウトで買って行く街の人々です。当時、日本ではコーヒーは脇役的な存在で、ひと休みをするための手段のようなものだったのです。コーヒーの料金は、いわば喫茶店の場所代でした。二重にショックを受けたのですが、海外と日本の“食の架け橋”を思い描いていた私は「これを日本へ広げよう!」と真っ先に思いました。
当時の私は銀行員です。その傍ら、タリーズの日本での展開を目指して、アメリカにある本社へ接触を試みました。FAXが主流の時代、パソコンを駆使して、メールを送りまくったのです。諦めずにコンスタントに連絡をしていても、まったく進展はない。後にわかったのですが、あの膨大なメールはほとんど上層部に伝わっていなかったようです(笑)。
一向に状況が進まず、焦りを感じていたとき、スターバックスの日本1号店開店のニュースを聞き、すぐさま駆けつけました。「もう自分がやらなくてもいいのではないか・・・」一瞬、迷いが生じました。しかし、「タリーズのコーヒーには他にはないものがある。この味と感動を伝えなくてはいけない」と自分を再び奮起させました。
銀行での営業成績が良く、私は自信を持っていました。けれども、銀行という看板を背負っているだけで、自分自身の実力ではないのではないかと疑問に思い、退行を決意しました。真の己の実力を試してみることにしたのです。銀行員時代の取引先の事務所の一画を借りて、輸入代行業を開始しました。飛び込み営業で商品を売込むことは予想以上に苦労の連続でしたが、非常に力がつきました。
この間、米タリーズへの連絡を継続していましたが、何の動きもありません。我慢の限界に達し、本社へ直接電話をかけてみると、代表のトム・オキーフ氏が商談のために来日している情報を掴んだのです。滞在先のホテルで幸いにも直接会うことができました。アポ無しでしたが、オキーフ氏は私の話に耳を傾けてくれました。最終的にはこちらの熱意が伝わり、他社との取引を覆して、日本への展開を私に任せてくれたのです。
1997年、タリーズコーヒー1号店を銀座にオープンさせ、翌年タリーズコーヒージャパン株式会社を設立しました。そして、一昨年前に社長を退任し、アジア全域への展開をすべく、2008年タリーズコーヒーインターナショナルを設立しました。現在は、全米2位のサンドイッチ・チェーン、クイズノスアジアパシフィックの社長も務めています。
創業社長の座を捨てるのは、傍からはランクダウンに見えるかもしれません。しかし、私は人生の目的の1割さえ到達できていない、未熟な身です。39歳になった今も学ぶ時期にあると、クイズノスアジアパシフィックでは“雇われ社長”の道を選びました。いわば、球団の監督になっていながら再びプロテストを受けるようなものです。私は、今も自分の成長のために、自分への挑戦をしています。
<某月某日 東京六本木ミッドタウン某所にて>
「Challenge ~自分を信じて突き進め~」は、次回に続きます。
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松田公太 Kouta Matsuda タリーズコーヒー インターナショナル ファウンダー 1968年宮城県生まれ、東京育ち。著書『仕事は5年でやめなさい』ではこれまでの人生や仕事について語り、多くのビジネスマンに刺激を与え続ける。銀行員を辞めて「タリーズコーヒージャパン」を立ち上げたことは有名だが、現在は「タリーズコーヒーインターナショナル」を設立し、アジア各国での進出を手がけている。拠点をシンガポールに移し、日本とアメリカ、アジア各国でビジネスを展開する多忙な日々を過している。 |
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